2007年02月13日

テレビ番組の不確かさ

私は貧乏なので食事はほとんど外食せずに自炊するようにしている。
いつもスーパーに食材を買いに行くのだが、セールでお買い得だった納豆が店頭から消えていた時期があった。
そう、例の「発掘あるある・・」捏造放映の後である。
テレビの力というのは以前から認識していたが、私が特に驚いたのは人が持つダイエットへの関心の高さである。
その番組を見て納豆を買い求めた人の全てがそれで単純に痩せれると信じたとは思えないが、そんなに高くはないし、もう一品ならダイエット効果のある納豆にしよう。そんな風に買い求めた方が多かったのではないだろうか。
こういう絶大なる影響のあるテレビでやはり捏造というのは問題であろう。
週刊誌やスポーツ誌ならこの記事は憶測だろう、大袈裟だと感じる者でも、目と耳で与えられるテレビなら変に納得してしまうという部分がある。
テレビ業界も視聴率競争社会であるから、そのために無理と無茶が生じる。
番組内容の捏造は会社の営業担当が売上予算に困って行う空売り、帳合いの類と同じである。
会社によっては営業社員が困って行うのではなく、月末や期末には上司も部下も皆が当たり前のようにこれが行われている会社がある。
「あるある・・」は氷山の一角に過ぎず、他にもきっとあるのだろう。
確かに最近のテレビ番組には内容によって違和感を感じることが増えた。
特に主婦層をターゲットにしたワイドショーといわれる番組の中にはこれは行き過ぎで、変な誤解を与えかねないと感じる内容のものもある。
時の人があれば異常に、過剰に持ち上げ、取り上げて放送する。
持ち上げられた人は視聴者によって過度な期待をされる事になる。
私はいつもその人が、その期待通りにならなかった時の事を考える。
少し前のホリエモンがよい例であろう。
過度な情報に惑わされる事なく、正視、正覚していきたいものである。
それにしてもワードショーをよく見ているようでは私も相当に暇であり、貧乏でも仕方がないとお叱りを受けそうである。

今後、このブログはもう1つの私のブログ「仏教とっておきの話」へ統合される予定です。
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2006年12月04日

公約違反

政党助成金目当てとしか思えない自民党の復党問題が報じられている。
先の衆院選は郵政民営化法案の是非を問う選挙であったはずだ。
それならこれは大きな公約違反ではないのか。
有権者をバカにするのもいい加減にして欲しい。
国会で拍手、喝采を受けていた郵政民営化に反対した議員たちに少しは骨があるのかなと見ていたが、結局、議員も党も自分たちのことしか考えていないようである。
これは絶対に有権者無視の裏切り行為だと私は思う。
これが政治の世界なのだという人もあるだろう。
しかし、そんな政治ならして頂きたくないし、税金も使って欲しくはない。
このままでは、美しい国ではなく、裏切りの汚い国にもっとなって行くに違いない。
大人たちがこういう騙しや裏切りを平気で行うから、子どもたちの心も歪んでしまうのだ。
なぜ、それが解らない。
だから福祉と世界平和を謳いながらも派兵を了承したり、障害者をいじめる自立支援法に賛同をする妙な政教一致の団体によろしくやられてしまうのだ。
お天道様も呆れかえって、知らん顔をしておられるに違いない。
本当に政治家の方々はこの国を愛しているのだろうか。
私は彼らにこそ、真っ先に真の愛国心とそれを示す具体的な行動を求めたい。
そして、国民はこの誤魔化しと、裏切りの行為をしっかりと記憶しておく必要があるだろう。
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2006年11月07日

心の教育

テレビをつけると学校のいじめと履修不足の問題ばかりで本当に疲れます。
国会では教育基本法を改正する論議があり、それと時を同じくして露見した教育現場の実態。
要は今の教師、先生方は生徒同士のもめごとには目を瞑り、お受験中心の授業で人間教育なんてクソくらえってって事ではないのだろうか?。
民主党の対案に心の教育が入っていたが、もっと何を具体的に教え、現場の教師はどう対応して行くかを考えた上で内容のあるものをぜひ、盛り込んで欲しい。
心の教育と言えば私にはある体験と思い出がある。

私は中学の時にいじめが原因である生徒と大喧嘩をやらかし、原因は相手にあるにも関らず、やり過ぎだという事で、逆にこっぴどく叱られて、教師や大人を信じられなくなり、その当時ではまだ珍しかった登校拒否を起した経験がある。
履修単位が不足し、進級も危うくなり、学校では校長、教頭を始め、最後は市の教育委員会からも担任や学年主任の先生方に私の問題でプレッシャーが与えられていたらしい。
担任は神経性の潰瘍で入院するは、そりゃ大変だったようだ。
その時に別のクラスの担任であった、ある1人の教師が、俺にあいつを預けて欲しい、何かあったら俺が責任を取ると言って、ある時から家庭訪問に訪れ始めた。
その教師はいわゆる生活指導の体育教師で少し怖がられている存在であった。
私にして見れば、とうとう切り札を出したなという感じで、それでも学校に行くつもりは毛頭なかった。
その教師はクラブ活動の指導を終えてから毎夜訪問してきた。
ある時に、その教師がこう切り出した。
「おまえの担任は結構、気の小さいやつでおまえの一件で患ってるよ。」
「学年主任や他の先生は対面や上の事を気にして右往左往している。」
「そう、お前の言うようにロクでもないやつらかも知れないな。」
「でも、俺にはそんな事はどうでもいい、ただ、このままではおまえのために絶対にならないし、バカな教師や大人ばっかりではないという事を分かって欲しいと思う。」こう私に力説をした。
そして、「他のやつらはどうでもいいから、俺だけを信用しろ、とにかく登校だけはして、何かあったら直ぐ俺のところに来い、嫌になったら途中で帰ってもいい。」そう言われたのである。
私はその迫力、熱意のようなものに驚いたが、それからよく考え抜いてから、この教師に賭けてみようと思うようになった。

数日後から、私は登校を再会し、喧嘩した相手とは関係がギクシャクしたままであったが、何とか終業式を向かえ、進級する事ができた。
そして、その翌年にはその教師が担任になった。
その教師は学級経営というある理念を持っており、いじめ、仲間はずれ、極端な学習の遅れなどを、クラスでは生徒を班単位に活動させる事によって連帯感を持たせ、いじめなどを絶対に作らないというやり方を徹底していた。
班日誌というものがあり、班の皆に回して必ず持ち帰って何かを書かせる。
クラスの問題点などを時に個人的に書かせて、教師がチェックし、放課後のホームルームで取り上げるのである。
授業が終ってからのホームルームは1時間を超える事はざらにあり、学習の遅れのある生徒、いじめをしている生徒、いじめられている生徒、事あるごとにホームルームで議題化して、議論、協議して結果と方針を打ち出す。
成績優秀でスポーツ万能、それでも身勝手であれば、徹底的にやられる、自尊心もくそもない、でもちゃんとフォローがある。
相手に反省と改善が見られたら、皆が拍手して感謝の心で誉める。
そういう議題のない時には教師の失敗談や経験談をユーモアたっぷりに聞かせてもくれた。

ホームルームが長くなるのでクラブに行けない、塾に行けなくなる日もある。
親がよく苦情を言ってきたが、その教師は全く意に介さない。
「こちらの方が○○君には重要ですから塾はやめさせてください。」
今だったら問題になっているだろう。
そのくせ、その教師はクラブ活動だけは奨励していた。
上下の人間関係、礼節、試練、達成感を身に付ける場として奨励をしていた。
私もクラブ活動をする事を進められ、あるクラブに入部した。
私も始めの頃はそのホームルームが嫌だったが、だんだんその時間が楽しく思えるようになってきたのである。
テスト前になると班単位で、それまでに受けた授業の範囲で班の中で比較して優秀な生徒が成績の悪い生徒を教える。
クラス委員などは絶対に人気投票や中傷的な投票になるからという理由で必ず立候補させるという状態を作った。
クラスに連帯感と責任感が生まれているので、必ず立候補者が出る。
スポーツ大会や文化祭の出し物では学年トップ、テストの平均点も学年トップ、その頃には学校に行くのが楽しい上に、卒業するのが嫌なぐらいの気持ちに皆がなっていたのである。
そして、この教師は内申書を伏せる事にいつも異議を唱え、生徒にはその時期には概略を伝えてくれるというやり方を徹底していた。
大きなトラウマともなる問題を抱えていた私にこの教師はそれを忘れてしまうほどの大きな影響を与えてくれたのである。

卒業後もその教師が私の住まいに近い学校に転勤されたので、私は運良く時々会う機会に恵まれた。
社会人になった頃に「あの当時は俺も28歳、無茶して暴走してきたが、よくあそこまでできたものだと思う事がある。」
「今の子供はあの時と同じようには接する事が難しい。」
喫煙をしていた生徒に、先生も学校の職員室で喫煙をしている。同じ人間なのに人には言えないだろうとやりこまれ、それらなら俺がやめたら、やめるかという約束を取り付け、禁煙しているとこぼしていた。
そして、「俺たちのやり方は独創的過ぎて、上は常にヒヤヒヤもの、俺は出世には無縁、ただの一教師だ。」と言っていた事を今も憶えている。

悪い時には徹底的に叱る、時には制裁もする。
しかし、自分に非があれば生徒の前で深々と謝る。
生徒を守るためならば親でも、他の大人でも容赦なく突っかかる。
生徒同士の関り合い、助け合いから連帯感を生み、いじめ、不正は排除する。
私が生徒として関っていたその現場には紛れもなく人と人との魂がぶつかり合う心の教育現場があった。
少し今なら行き過ぎの面もあるかも知れないが、今だからこそ、こういう徹底した管理的なやり方がいいのかも知れない。
別にそれで生徒が閉塞感を持っていた訳ではない、反って学校生活に喜びや生き甲斐さへも感じていたはずである。

その教師のやり方、姿勢はやはり教育委員会などの上としてはやり難かったのであろう。
今も昔もそのあたりは旧態依然であり、全く変わっていないはずである。
その後、その教師は教頭や校長にもならず、そして、教育委員会にも行かずに、市のスポーツ施設で細々と指導員として働いておられたが、今から10年ほど前に病に倒れ、夭折された。
葬儀には弔問者の長蛇の列ができ、まるで有名芸能人の葬儀のようであった。
その仕事振り、人柄への最大の感謝と評価である。

この教師との縁は私自身の人間形成という点で大きく影響を受け、本当に深い恩義を私は今も感じている。
夜回り先生という立派な方がおられるが、あの方に通じるものがあり私の無二の恩師である。
今は親の立場として、もう少し安心のできる教育現場を再建し、そして、必ず心の教育をもっと重視して具体的に中身のある事を行って欲しいと思う。
最近は子供たちもかわいそう、現場の教師たちもかわいそうな気がしてならない。
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2006年10月10日

続・学校のいじめ

以前に学校でのいじめに付いて書かせて頂いた。
最近、北海道の滝川市で小学6年生の女児が自殺し、その原因がいじめであったという事が書かれていた遺書の内容を教育委員会が伏せて誤魔化し、抗議が殺到して止む無くその事実を認めて、親御に謝罪をしたという報道があった。
前にも書いたが学校という場所には必ずいじめがある。
子どもたちの世界には共通する認識と嗜好、そして志向を持つ事によって、その何人かの集団が結束して行くという流れと環境がある。
リーダー格の子どもや発言権のある子どもが、あの子がキモイと言えば、それに同調する事によって集団の結束が成される。
別に意味や理由があって結束している訳ではないだろうが、集団で遊ぶにはある種の結束がある方が楽しいし、また、必要なのであろう。
これが人間の性、カルマなのかも知れない。
子どもがアニメや何らかのグッズなどに関心を寄せるのも、その協調性を維持しようとしている場合もある。
同じ物を所有し、話題に入れないと村八分、つまりいじめの対象となる可能性が出てくるのである。
現場の教師たちがこのような昔から繰り返されている子どもたち固有の世界をどう認識しているのだろうかが疑問である。
公立学校や教育委員会には事を大きく荒立てたくないという公務員特有の保身の空気がある。
特に教育委員会はある種の名誉職であり、厳しい現場仕事とはかけ離れた感覚の方たちがいる組織と想像され、官庁の特殊法人と何ら変わらない無意味、無機能な組織ではないのだろうか。
新しい政権も教育改革を言っているが、今の教育委員会などは解体しても現場には差し障りがないかも知れないのである。
自分の子どもがいじめに悩んでいる事を知ると、まずは教員に相談をするケースが大半だと思う。
中には素晴らしい教員もいるだろう、しかし、過信は禁物である。
その教員の対応によっては、加害者の子どもたちも考えるので、今度はいじめが表面化しないように陰湿になって行くというケースが発生してくる。
陰湿になって行くといじめられる方は更に精神的に追い込まれて行く。
私も子供の頃に陰湿ケースを経験しているし、その方向に進む割合は高いと思われるのである。
登校拒否、引きこもり、ニートなどの問題の根底にはこのいじめが発端になっている事が多いと私は考えている。
我が強く、意地悪な面のある親に育てられた子どもは、いじめを悪気なく簡単にやる傾向があると感じる。
子どもたちだけの責任とは言えない、教師の教員免許更新を考えるのもよいが、経済的理由ではなく、メンタル面で親の資格がないという者も増えているのではないのだろうか?。
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2006年09月08日

精神的プア

小泉さんは格差のある事は別に悪い事ではないと言っていたが、本当に最近はこの格差社会を日々に感じる事が増えた。
あるところの統計によると2001〜2004年で年収1,000万以上の人が15,000人増えているが、300万以下の人も117万人に増えているという。
また、生活保護受給者が2005年で142万人を突破し、5年単位で受給を見直すという話も出てきている。
この142万人は1995年時の実に1.6倍である。
生活保護受給の場合、生活費と医療費など支給の平均額が年間で230万程度と言われているが、それより酷いのが年収がこの金額に満たない人も同時に増えているという現実である。
最近、こういう方々の事をワーキング・プアと呼ぶらしい。
実に嫌な響きの言葉である。
仕事はあるけれど、日々の生活で精一杯という状態なのである。
こういう状況の方々が割合として増え続けると、稼いでいる企業や稼いでいる方々がこれらを下支えして行く事はどう考えても困難であろう。
今後もこういう層が肥大化する傾向を感じるが、そうなると国も成り立って行かなくなり、弱者、庶民は益々精神的プアに陥って行く。
国民の幸福感の統計を見ても、日本はフィリピンよりも幸福感が低く、その精神的プア感を既に表している。
それはもっとも多い、弱い立場の方々にとって、この国には希望がないという事である。
私の住む関西はバブル景気の後遺症どころか慢性疾患の状態であり、生活保護受給者の伸び率も突出している。
私の周りにも多くのワーキング・プアが存在し、ある意味で私もその1人と言えよう。
私にはこの仕事以外に昔から行っている仕事もあり、実に安価な案件ではあったが、それにも関らず最近では直前で何度も頓挫する事が続いている。
勝ち組みか、負け組みかは知らないが、資本家主義国家であっても擁護に値しない、人々にとって社会的存在価値のないつまらない企業も増えているのであろう。
美しい日本も大いに結構だが、弱い立場に押し寄せる是正はいつも明確なのに、官や特殊法人、特別会計などの是正は一行に明確になる兆しすらもない。
政権与党の公明党が、もし与党に参画していなければもっと悪くなっていたと戯言を言っているらしい。
これって昔どこかで聞いた事のあるようなフレーズである。
思い出したぞ、それはまるで、低俗霊能者の言い訳と同じニュアンスなのである。
多くの国民を精神的プアに追い込んでいるこの国には責任とカルマが重く圧し掛かっている。
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2006年08月15日

終戦の日の誓い

首相が終戦記念日(正しくは敗戦記念日)である今日、靖国に公式参拝したらしい。
国のために命を捧げた英霊に真の心を尽くして、不戦の誓いを立てるとは言うが、
それで日本の恒久平和に繋がるのだろうか。
私は人にカルマがあり、そのカルマに気付かず、それを皆が減じようと行動しない限り、争い事は簡単にはなくならないと思っている。
国土を大切にし、国民を思う愛国心は私も持ち続けたいと思っているが、それを無理に打ち立てて、変な自尊心まで高める必要など全く無用だと感じる。
靖国参拝に関して「内政干渉だ、日本人の文化だ」と言って怒りの感情を抱くことは、仏教真理から見れば、単に瞋恚(しんに)という心の三毒を起し、カルマを積むことに他ならない。
言ってみれば、それは今の中国韓国も同じ状態である。
これでは目には目をの考え方にあまり変わりはない。
日本は敗戦してから、戦勝諸国のその時々の都合で、曖昧に処理されてきたのだから、ある意味で仕方がない面もあろう。
また、宗教教義として自由奔放過ぎる神道が軍国主義時代には上手く活用され、そしてまた、敗戦後にも曖昧に利用されているように私には感じられる。
高次の神々はどう思っておられたであろうか。
神々の意に添わないからこそ、敗戦という憂き目にあったと考えるのは間違いであろうか。
高次の神々は少数や一個人の想いを聞いてくれる存在ではない。
恵も大きいが、戒めも大きい、それが神の存在である。

「人生いろいろ、人もいろいろ」と言いつつも、方向性に逆らう者は抵抗勢力と今の与党は位置付けてきたはずである。
こんな国では、安堵は生まれない。
61年前の愚かなる戦争も、遥か昔の過去の戦争も、いつも苦しみ、辛い思いを強いられるのは一般庶民と弱者であることを忘れてはならない。
今の状況では弱者も抵抗勢力なのかと思ってしまう。

徐々に危険な方向に流れ、人にカルマのある限りには、争い事は簡単になくならないとは感じているが、それでも気付きある者は言い続けなければならない。
原爆の被災者もまだ居られる、2世、3世の被災者も居られる。
多くの御霊はまだまだ安堵を得られないということを私は日々感じ取っている。
心の問題も大きく含めて、同じ過ちは絶対に繰り返してはならない。
私は終戦の日に、犠牲になられた多くの御霊に誓い、深い祈りを捧げる。
そして、これからも弱者のために言い続ける。
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2006年07月12日

学校の苛め

小さな子供が犠牲になる心が痛むような事件が続いているが、逮捕者を分析する時のキーワードに学校時代に苛めに遭っていたというものがある。
子供が何らかの原因で自らの命を絶った場合にも、その学校の会見では必ずと言ってよいほど、「苛めはなかった、そういう認識はしていなかった」と答えている。
実際のところはどうなんだろうか。
私は学校ほど苛めのある場所はないと思っている。
子供たちの自尊心がはっきりしてくる頃でもあり、自分もしくは自分たちと区別を付けたがるという事がある。
また、学校の催しや遠足など、自分にその気がなくても小さい最低限の友達グループに属していなければ、やっていけないという事が学校生活には多々ある。
その時には自分は嫌でも、ある相手を苛めなければそのグループに属せないという事を私は子供の頃に経験した事がある。
私はある時に、その理不尽さが許されず、苛めに加わるのを止めた。
そうすると、その相手の肩を持ったという事で、自分が今度は苛められる側になってしまうのである。
全てがそういう場合ばかりではないとは思うが、私の場合はそれが小学校の高学年から中学まで続いたのである。
中学では他の小学校からも生徒は加わるが、私は気を許せない、裏切り者というレッテルを脱退した苛めのグループ数人から貼られて、また、知らない相手からの苛めを受ける事になる。
苛めの基本は学校や教師にはばれないように行なう事が本来は基本である。
酷いやつになると、陰で苛めを行っているにも関らず、教師には良い子のイメージを与えるように接しているやつもいる。
私はある時期に我慢が切れて、校庭で大喧嘩をやらかした。
理由を説明したが、相手に怪我をさせた私は教師からやり過ぎだという事で、大目玉を食らったのである。
相手の家に謝りに行かされ、私は学校と教師を信用できなくなった。
そして、その当時としては珍しい登校拒否になったのである。
私の学校は高進学率の全く問題が起らない優秀校であった。
しかし、実情はその分、成績を争って相手の教科書を隠したり、ノートを破り捨てたりするという陰湿な苛めが他でも起っていた。
昔の話だが、結構な苛めがあったと記憶している。

私もそうだったが、家庭環境に問題があって育った子供は、どこか大人に頼るが、そのくせ、大人や社会を信用できないという内面を持っている。
この場合、学校や教師たちの事であるが、そういう部分をもっと分かる必要があるのではないだろうか。
家でも守られない、外(学校)でも守られないという疎外感の鬱積が性格を反社会的に持って行くとは言えないだろうか。
私はその後、運良く、1人の立派な教師に巡り合う事ができ、「親も誰も信用しなくてもいい、俺だけを信用しろ、そして何かあったら直ぐに俺のところに来い」と言ってくれた事で登校を再開し、逆にその後の学校生活を楽しくさせてもらい、今は残念な事にその師は故人になられたのだが、今でも深く感謝をしている。

学校には必ず苛めはある。
子供の安全を考えるのは通学路だけではない、子供の心の安全という事にももっと真剣に注力をしないと、反社会性人格の人間を生む事になってしまうのではないだろうか。
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2006年06月09日

なくしてはならないもの

近頃は子供たちが狙われるような怖い事件が多いので、子供と常に連絡が取れるよう、GPSで居場所が分かるようにと防犯目的での携帯電話が子供たちにも普及してきている。
中学、高校生などは持っていて当然という時代が来ているようだ。
もちろん防犯目的だけに使われているだけではなく、家族との連絡、友達とのコミュニュケーションにも使われているだろう。
自分たちが子供の頃には携帯はなかったので、よく家の固定電話を使って遊びに行く約束などをしたものである。
もちろん、電話を掛けても本人がでるとは限らない、時には友達のお母さんがでて、「宿題はもう済んだの?」「発表会は何をするの?」などと友達本人に代わってもらう前に突然、いろいろな他のことを聞かれたりして、使い慣れない敬語でタドタドしく会話をするというようなことがよくあった。
特に夜に掛ける時には気を遣い、8時だから「夜分恐れ入ります」を言うべきかを悩んだりしたものである。
ところが、今は個人持ちの携帯であるから、親がでるというようなことはあまりないだろうし、夜の挨拶なども言う必要がない。
あるテレビのローカル番組でも、携帯の普及で子供や若い人たちが目上の人とのコミュニュケーションが減って、挨拶や敬語が上手く使えないという指摘をしていたが、これは少し問題があることかも知れないと感じた。
携帯は非情に便利な機器であり、前述のように防犯のメリットなどもあるだろう。
しかし、使う側が子供たちや若い人の場合、その姿勢で学ぶべきことや人とのコミュニュケーションで大切なものが落とされてしまうということがある。
敬語、季節や時候の挨拶には霊的にも良いエネルギーを交換する良い言霊が秘められていると言われている。
便利、安心はとても良いことではあるが、人間関係において、絶対になくしてはならないものもあるのではないだろうか。
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2006年05月25日

迷走社会保険事務所

10月のブログに厚生労働省が発表した数字が、見かけ倒しであるという事を私は書いた。
以下がその内容である。

年金一元化においてもっとも課題の多い国民年金が厚労省の発表では支払率が昨年よりも0.2%アップしたというのである。
>ところが、中身を調べてみると保険料を値上げしたにも関らず総額は昨年よりも落ちているのである。
>これはどういうことか、つまり支払いができない者に対して支払の免除(支払額の3分の1を支払った事になる)を多く促したというカラクリがあった。
>また、その結果を出すために集金、取立てに多くの人件費も使っているようだ。>もし国民年金、つまり基礎年金に税が使われ始めたら自分たちの存続が危ぶまれるから、こういう見かけ倒しの数字を出してくるのだ。

この度、14都府県において7万2000人分の保険料免除を勝手に行なっていたという不正が表面化して、責任者の更迭という事態になっている。
私は自分たちで保険免除を一生懸命に推進していたのかと思っていたが、この有り様に本当に空いた口が塞がらないという感覚になった。
こどもが悪戯を隠すぐらいのレベルのお話ではないだろうか。
私たちの金がこういう方々の給料に使われていると考えると本当にバカバカしい。
こんな状態がいつまで続くのだろうか。
公務員ばかりが悪者だとは思わないが、間違いや誤魔化しのあってはならない世界だと私は感じる。
政府や公的機関を信頼し、真の愛国心を持てるのはいつになるのだろうか。
posted by heizo at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月10日

共謀罪

与党がまた、意味不明な共謀罪法案を可決させようとしている。
そもそもこの法案は過去に時の法務省が我国には馴染まないということで、何度も
廃案になってきたものである。それを今更・・・?。
今回の主旨を見ても、共謀する団体の定義、どの時点を取ってその共謀行為と断定するのか、労働団体や市民団体などはその対象とするのか、などが全て曖昧であり、人の心を監視、取り締まる悪法という感じがしてならない。
団体の場合、時として裏切り行為を奨励するような状況も考えられ、団体役員は疑心暗鬼で組織を運営をしなければならなくなるであろう。
役人の心を変えることすらできない権力が、一般国民の心を縛り付けるような法を作る事が許されてはならないと私は感じる。

我国は共産主義者を取り締まる目的で作られた治安維持法が拡大解釈されて、異常な事態になった歴史がある。
現与党の集票マシンである、かの政教一致団体がこの憂き目にあった訳だが、なぜこれに十分に似た要素のある法案を、推し進めようとするのかが疑問であると言っているジャナーリストがいるが、私はもしかすると、この法案を拡大解釈して、自分たちの都合の良い判断で、思想、言論を弾圧しようと考えているかも知れないと想像すると恐ろしくなってくる。
これは私の浅はかなる邪推や考え過ぎであろうか。
posted by heizo at 21:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする